前事不忘 後事之師 第129回 戦争の抑止か勝利の追求か

―決着していない議論―
歴史家・川田稔は、「満州事変と政党政治」という本の中で昭和初頭に活躍した二人の人物について興味深い比較をしています。一人は政党政治家の浜口雄幸、もう一人は陸軍軍人の永田鉄山です。

浜口雄幸(1870年~1931年)は大蔵省出身の政治家で、張作霖爆殺事件の責任をとって田中義一内閣が総辞職した後に内閣総理大臣に就任(在任:1929年7月~1931年4月)。協調外交を推進し、ロンドン海軍軍縮条約を締結します。

永田鉄山(1884年~1935年)は陸軍士官学校、陸軍大学を優秀な成績で卒業した秀才肌の軍人で、軍政家として陸軍本流を歩み、陸軍の改革・刷新を主張したいわゆる「統制派」のリーダーでした。
川田はこの二人の安全保障観の違いについて分析します。二人は第一次大戦によって戦争の性質が大きく変化し、今後の近代工業国間の戦争は陸海軍のみならず、兵器・機械工業とそれを支える人的・物的資源を総動員する「国家総力戦」となるとの共通認識を持ちました。しかし、ここから先の見解は異なります。
浜口は仮に再び世界大戦が起これば、新たな大量破壊兵器が大規模に使用される長期の総力戦となり、その結果、これまで築き上げてきた文明社会が根底から破壊されると予想し、そのような事態は一国の利害そのものを無意味化するので、次の大戦は何としても避けなければならないという「戦争抑止論」に立ちます。
このため、浜口は戦争の防止を主要目的として創設された「国際連盟」の役割を重視します。また、軍縮問題についても、それは単に軍事費の削減や対米英協調の面からのみならず、「競争的軍備増強に伴う危険」を防止し、国際連盟が目指す平和構築に役立つものと考え、1930年のロンドン海軍軍縮会議では、海軍軍令部の反対を抑えて米英日の補助艦艇比率を受け入れます。
川田の説明によれば、浜口は国際連盟を軸にワシントン海軍軍縮条約、中国の領土保全と門戸開放に関する九カ国条約、太平洋の平和維持に関する四カ国条約、不戦条約、ロンドン海軍軍縮条約などの多層的条約網の形成による戦争抑止システムを意識的に追求し、自国の国防力については、抑止効果を持ちうる一定の軍備(具体的には軍縮条約で決められた兵力量)と国力を備えていれば、多層的・重層的な条約網によって戦争は抑止可能と考えていました。
戦争抑止論に立っていた浜口に対して、永田は第一次大戦後の平和維持を希求する動きにもかかわらず、国際紛争の要因は除去されておらず、国際社会が今後も戦争を防止することは不可能と考えていました。
興味深いことに永田は近衛文麿のように国際連盟を欧米列強による世界支配の道具であると見ていませんでした。国際連盟は国際社会をいわば「力」の支配する世界から「法」の支配する世界へと転換する志向を含むものであると肯定的に捉えていました。
しかし、問題は連盟の有する「実行手段」がその標榜する理念を達成しうるかどうかですが、永田は国際連盟の有する「力」は大なる権威をもって加盟各国にその決定を強制しうる性質のものではなく、連盟は世界の平和維持の「完全な保障たり得ない」と分析していました。
また、軍縮についても、国際紛争の原因が除去され国際関係が正義によって厳格に律せられる世界が現出しない限り、平和目的のために軍縮を策することは「順序の転倒」であるとして、浜口のような軍縮を平和促進に有意味的に位置づける考え方には否定的でした。「崇高なる思念に立脚する平和運動に対しては、満腔の敬意を払うに吝かでないが、国防軍備を軽視閑却せんとするが如きは、断じてこれを排撃せねばならぬ」。これが永田の姿勢であり、永田は軍人として不可避な戦争にどうやって勝利するのかを考えました。答えは総力戦に備えて国家総動員の計画を準備しておかなければならないというものでした。
二人の安全保障観は以上の通りです。太平洋戦争の敗戦で、二人の議論に決着がつき、軍配は浜口に上がったように見えます。しかしながら、事はそれほど単純ではないと思います。
浜口は不戦条約について「条約に違反するものは全世界を敵とすることになる。世界各国は侵略されたる国を援助するであろうし、条約違反国の行動を傍観することはないであろう」と述べましたが、世界の現実を見るとその見解はナイーブです。
また、浜口が重視した国際連盟の後継である国際連合についても、その紛争抑止機能に疑問符がついています。他方、国際紛争の要因は除去されていないとの永田の観察は正しいですが、だからと言って永田流の政策には大きな陥穽があります。
軍人として勝利の追求を行うのは当然ですが、完全な総力戦体制の構築を目指した結果、資源を求めて中国大陸などに侵攻することとなり、中国や米国と戦う状況になりました。徹底した勝利の追求をすれば、結局は戦争になるということです。二人の議論は百年前に提起されたものですが、現在においても依然として未決着だと思います。
鎌田昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)







