前事不忘 後事之師 第128回 満州事変を考える

――政治指導者の判断が重要
今から95年前の1931年9月、その後の日本の方向を大きく変える事件が起こりました。「満州事変」です。当初、この事変は中国軍の攻撃に対する関東軍の自衛行動とされていましたが、実際は関東軍の作戦参謀・石原莞爾中佐と高級参謀・板垣征四郎大佐の“謀略”でした。
翌年3月には傀儡(かいらい)政権・満州国が成立し、その後日本政府が満州国を承認したことから謀略は成功しました。歴史家の何人かは、事変4日後の閣議が増援のための朝鮮軍の独断出兵を事後承認したことが大きなポイントだったと主張します。
事変から閣議までの流れを五百旗頭真元防衛大学校長や川田稔名古屋大学名誉教授の著書を基に示します。
1931年9月18日、午後10時20分頃、満州・奉天近郊の柳条湖付近の満鉄線路が爆破されます。爆破は関東軍の部隊が行ったものでしたが、板垣は中国側からの攻撃だとして、独断で奉天郊外に所在する中国軍部隊を攻撃。その後、攻撃範囲を拡大させ、翌日には長春など満鉄沿線の南満州主要都市のほとんどを占領します。事変を受けて翌19日午前中に臨時閣議が開かれます。陸軍側の出席者の南次郎陸相は関東軍の行動は中国軍の攻撃に対する自衛であると説明。
しかし、事変は関東軍の謀略の疑いが濃いとの奉天総領事からの報告を受けていた幣原喜重郎外相が南陸相に関東軍の謀略ではないかと鋭く迫ったため、南陸相は満州への朝鮮軍の増援を提議できず、閣議では「不拡大」の方針が決定されました。
石原参謀らの計画が成功するかどうかは、閣議で朝鮮軍の増援が認められるかにかかっていました。というのは、関東軍は満鉄沿線の警備を任務とする部隊であり、一駐箚(ちゅうさつ)師団と六独立守備歩兵大隊からなる総数1万600足らずの兵力に過ぎず、他方、張学良率いる中国東北辺防軍の総兵力は45万。このため朝鮮軍からの増援が必要でした。
なお、明治憲法下では軍の行動は天皇の統帥権に属し、陸相・参謀総長の承認のうえで天皇の裁可と奉勅命令の下達が必須でした。他方で軍の行動に関わる経費支出は内閣の権限であり、参謀本部も「出動準備中なる部隊の行動発起は、閣議において経費支出を認めたる後、奉勅命令の伝宣になる」との認識でした。
謀略成就の鍵が朝鮮軍の満州への越境にあることから、石原参謀はかねてより朝鮮軍の神田正種参謀と語らい、事変勃発に際しては神田が林銑十郎朝鮮軍司令官を説得して来援するよう打ち合わせ済みでした。
実際、事変の勃発を受けて、林朝鮮軍司令官は独断で配下の混成旅団を越境させようとしますが、この行動は天皇の裁可がなく重大な軍令違反であり、軍令部門のトップ金谷範三参謀総長は越境制止命令を出します。
しかし命令は無視され、21日の午後に朝鮮軍の部隊は越境。越境の報告を南陸相から受けた21日の閣議では、若槻礼次郎首相、井上準之助蔵相、幣原外相らは憤慨しますが、結論を出せずに散会。決定は22日の閣議に持ち越されます。
この状況の中で、陸軍中央では、今回の事変は軍部が主導権をとって満蒙問題を解決し、国運を切り開く絶好の機会であるとの意見が大勢を占め、22日の閣議では、陸軍は朝鮮軍の越境について政府の追認を断固として求めることで一致。
もし閣議が拒否するならば、陸相の辞任により倒閣も辞さぬ覚悟で闘う態勢をとることになりました。
激論が闘わされると予想された22日の閣議でしたが、朝鮮軍の独断出兵について若槻首相が「既に出たものは仕方なきにあらずや」と発言、出動の事実を認めた上で、それに要する経費も認めることが決定されました。陸軍側も拍子抜けする決着でした。

五百旗頭は、「若槻首相が朝鮮軍の独断出兵を追認したことは、不拡大方針を空文化し、出先部隊が抗命して作る既成事実の際限なき追認につながった。仮に追認を拒否していたら別の展開があり得た」と言います。その場合の予想される展開とは、南陸相は参内して天皇に骸骨(がいこつ)を乞(こ)うが、天皇は事変の解決まで辞めることは許さず、「軍紀を糾(ただ)し、国際的信用を保つことに協力せよ」と諭すというもので、「いい勝負になった」可能性があるとして、なぜ若槻首相は闘わずして軍門に下ったのかと書いています。
他方、川田は元老や天皇の一部側近が軍部を抑えるために天皇を巻き込むことに否定的だったことから、若槻首相は軍内で比較的、国際協調に理解を示していた南陸相・金谷参謀総長との関係を維持しながら現内閣で事態の収拾にあたることが現実的と判断し、内閣総辞職となる危険を避けるため、独断出兵を追認したと分析し、五百旗頭が予想する展開は難しかったとしています。
私にはどちらが正しいのか分かりません。しかし、いずれにしても、火をつけたのは出先部隊の参謀でしたが、事態の帰趨(きすう)を決めたのは、若槻首相を中核とする中央政府でした。
現行憲法下の自衛隊では95年前と同じ事変は起こり得ませんが、現場で生起した重大な事案の処理について時の政治指導者が適確な判断を下せるかどうかは永遠の課題であり続けると思います。
鎌田昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)







