防研セミナー 時代を読み解く シリーズ<53> サイバー時代の抑止を再考する ~「攻撃ゼロ」を超えた評価軸へ~
- 5月27日
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防衛研究所 先進領域研究部 サイバー安全保障研究室
1994(平成6)年生まれ、ロンドン出身。法政大学グローバル教養学部卒業、ロンドン大学大学院キングス・カレッジ修士課程修了(戦争学修士)。2016~25年(社)共同通信社記者、25年防衛研究所入所。専門分野は、戦争学、サイバー・認知領域の安全保障、抑止論。最近の業績として、「サイバー時代の抑止は何が変わったのか―伝統的理論の限界と新たな抑止の考え方」(NIDSコメンタリー、26年3月)。
出来事中心に依拠した評価軸
国家間競争がサイバー空間へと深く浸透し、武力行使に至らないサイバー活動が常態化する中、伝統的な抑止理論をサイバー空間に応用する試みは根底から問い直されつつある。サイバー攻撃が日常化する今日、「抑止」という古典的概念はなお有効なのか。従来の抑止理論は、核抑止時代に確立された「重大な攻撃が起きたか否か」という出来事中心の評価軸に依拠してきた。一般に抑止の3つの成立要件とされる能力、信頼性、伝達は、明確な戦争と平和の境界と明示的なシグナルを伝える前提によって成立するものであった。しかしサイバー空間では、平時から偵察・潜伏・情報窃取といった閾値未満の活動が展開され、特定の攻撃発生の有無を抑止の成否の指標とする枠組みは、現実と整合しにくい。
象徴的なのが、米国および同盟国の重要インフラに長期間潜伏していた中国系脅威グループ「ボルト・タイフーン」の事例だ。直ちに破壊を伴う活動ではないがゆえに、出来事中心の発想では「攻撃が起きていない以上、抑止は機能している」と理解されかねない。しかし米当局によれば、有事の際に重要インフラへ影響を及ぼすために事前配置されていたとされる。すなわち、平時の沈黙の背後で、有事を見据えた足場の構築が進行していたのである。
こうした認識のずれを踏まえ、一度は行き詰まりを見せたサイバー抑止論をめぐる近年の議論は、「攻撃ゼロ」ではなく相手の行動の規模・頻度・態様の変容を抑止の指標とする方向へと移行している。サイバー空間では強制が成立しないとみなし、抑止理論からの脱却を主張するサイバー持続性理論の立場にも合理性はある。ただし、サイバー攻勢が物理空間の通常戦力などと統合的に運用され、情報システム等を介して敵の意思決定に摩擦を生み出すのであれば、その効果は抑止の論理にも応用しうるはずである。
効果を積み上げる動態的プロセスを
近年では、イスラエルの対テロ・対非正規戦から着想を得た、サイバー攻勢を含む多様な手段の反復的応答を通じて相手の行動を制限・形成する累積的抑止という発想がある。また、分散的に展開される敵対行為に対し集中的かつ可視的な対応を打ち込み、認知上の再計算を相手に迫る区切りのある抑止という論理もある。いずれも、抑止を一回限りの威嚇ではなく、時間を通じて効果を積み上げる動態的なプロセスとして捉え直す試みである。
さらに重要なのは、サイバー単独では抑止が完結しないという領域横断型抑止の考え方である。サイバー手段は、外交・経済・通常戦力といった複数領域の手段と統合運用されてはじめて、相手の行動変容を促す。2026年2月に実施された対イラン「エピック・フューリー作戦」では、サイバー軍と宇宙軍が打撃に先立つ非物理的攻勢を実施し、相手の状況把握と対応能力を妨害・低下させたうえで通常戦力が目標を打撃したと米軍が公表しており、領域横断的な統合運用が現実の作戦様式となりつつある。他方ウクライナ戦争は、サイバー単独では戦争の帰趨を決し得ないことを示しており、防御側のレジリエンス(抗たん性)との相互作用のなかで効果が計られることも看過してはならない。
累積的・統合的発想が不可欠に
この理論的潮流は我が国にも無関係ではない。問われるべきは、いかなる相手の、いかなる行動を、どの期間で変容させようとするのか、という戦略目的の定義である。サイバーは他領域との統合運用を前提としてはじめて意味を持つ。重要なのは、攻撃の絶対的不発ではなく、相手の作戦遂行に持続的な摩擦を生み、その軍事目的の達成可能性を多層的に削り取っていくことである。サイバー時代の抑止には、こうした累積的・統合的な発想が不可欠である。
(2026年5月28日付「朝雲」)












