防研セミナー 時代を読み解く シリーズ<51> 満州にみる東アジアの戦後秩序の原点
- 3月26日
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更新日:4月27日

戦史研究センター 主任研究官
1986年5月生まれ、神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科後期博士課程(史学)単位取得退学。2017年防衛研究所入所。専門分野は近現代中国の軍事史、政治外交史。主な業績に「中国国民党軍の終戦処理:対日反攻から接収へ」(『安全保障戦略研究』第1巻第1号、2020年8月)、「日中戦争期の華中・華南地域をめぐる中国国民政府の軍事体制:政治工作と軍事作戦の関係を中心に1938-1941」(『安全保障戦略研究』第2巻第2号、2022年3月)
満州の勢力圏化争う日・ソ・中
近年、国際秩序の不安定化とともに勢力圏をキーワードに国際情勢を語る議論が散見される。しかし東アジアに目を向ければ、戦後秩序の形成そのものが、勢力圏的発想と切り離せない形で進んできた。その縮図ともいえるのが満洲(中国東北地域)である。満洲は華北地域・シベリア・朝鮮半島・モンゴルと接続する多民族的な辺境地域であり、それゆえに近代以降の東アジアにおける角逐の舞台となってきた。そこで、終戦前後にさかのぼり、満洲から戦後東アジアの秩序と勢力圏について考えてみたい。
戦前、満洲をめぐる勢力圏的な秩序を争ったのは、日本・ソ連(ロシア)・中国であった。日清・日露戦争以来の対立に加え、1930年代には、満州をめぐる角逐は周辺地域も巻き込む複雑な様相を呈していた。日本は「五族協和」を標榜して満洲国を建設、ソ連・中国と対立しつつ、華北・内モンゴルに対する関与を強め、自治政権を樹立した。ソ連は周辺地域の勢力圏化を進めており、1924年に外モンゴルにモンゴル人民共和国を誕生させたほか、新疆への介入を深めた。
満州権益めぐり米ソ両国で密約
その後、第2次世界大戦が勃発すると、ソ連との国境紛争を除けば、満洲は終戦まで戦局の中心から遠ざかった。しかし大戦後半、日本の降伏が明白になると連合国陣営内で新たな秩序像が模索され始めた。まず1943年のカイロ宣言では、満洲の中国帰属と朝鮮半島の独立が謳われた。ところが、連合国の方針は一貫せず、1945年のヤルタでは、満洲の一部権益をソ連が確保する密約が米ソ両国間で交わされた。連合国の戦後構想は、陣営内の一致を見ぬまま、ソ連による満洲の軍事占領を前提として歩み始めたのである。
そして1945年8月、ソ連軍が対日参戦すると、満洲は東アジアの戦後秩序を占う重要な焦点として浮上した。ソ連はモンゴルから満洲、朝鮮半島北部までを席巻することとなり、満洲と周辺地域に勢力圏的な秩序をめぐる争いが再び始まった。ソ連の軍事圧力に直面した国民党政権は、ソ連による中国共産党への支援や新疆への介入の中止、満洲の権益の譲歩を条件に、外モンゴルの独立を事実上認めた。結局のところ、連合国陣営の秩序構想は、満洲をめぐる地政学的な対立構造の解消にはつながらず、むしろ勢力圏的な秩序を再構築したといえる。
ソ連の満洲占領自体は1946年の撤兵をもって完結したが、その影響は甚大だった。国民党政権は満洲を掌握しきれず、多民族社会への対処もままならなかった。その間にソ連の支援を受けた中国共産党が、北部や内モンゴルで勢力を拡大した。ソ連は極東の軍事体制の強化を図っており、満洲を衛星国化する構想すら抱いていたとされる。朝鮮半島は米ソ両国のもとで分断が進んだが、米国政府は満洲については関与を低下させ、蒋介石に対し他地域の統治に注力するよう助言した。戦後満洲では、米国が関与を縮小するなか、ソ連と国民党政権との非対称なパワーバランスに基づく勢力圏的な秩序の形成が進んだのである。
中ソで友好条約在満権益返還へ
結局、この問題に決着をつけたのは、中国共産党であった。中国共産党は周辺の民族主義運動を抑えつつ満洲を確保すると、最終的に国民党に勝利した。1950年には、ソ連との間で中ソ友好同盟相互援助条約を新たに結び、ソ連の在満権益の返還を決定する。そして、1951年、朝鮮戦争に参戦したことで、中国共産党はアジア冷戦の構図を確立した。
満洲が映し出す戦後秩序は、主要国間の取り決めや構想に基づく制度とともに、流動性を多分に含んでいた。その流動的で相対的なあり方は、戦時と戦後にまたがる軍事的展開と各アクターの認識や力の動態が交錯するなかで決定づけられたのである。
(2026年3月26日付「朝雲」)












