創刊70年を迎える『朝雲』は自衛隊の活動、安全保障問題全般を伝える
安保・防衛問題の専門紙です

前事不忘 後事之師

渦にのみ込まれたイギリス ―大戦への道は、ある条件の承諾からー

ミュンヘン会談に出席した左からチェンバレン、ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ

 第二次世界大戦の不思議の一つは、イギリスは、ずっと中東欧に自国の死活的国益は無いと表明していたのに、なぜポーランド問題でドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まったのかということです。

 その理由は、チェコスロバキアを巡る危機への対応にあります。1933年にドイツで政権の座についたヒトラーは、ヴェルサイユ体制下で各国に分散させられたドイツ民族の統合を目指します。まず1938年の3月にオーストリアを併合。次にチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定めます。この地方は住民の多くがドイツ人であるにもかかわらず、ヴェルサイユ条約でチェコスロバキアに組み入れられたからです。ヒトラーは、同地のドイツ人がチェコスロバキアから不当な扱いを受けていると非難をしますが、本当の狙いは、ズデーテン問題を利用し、チェコスロバキアに軍事侵攻し、同国を支配下に置くことでした。ヒトラーは得意の瀬戸際政策でチェコスロバキアとの戦争を辞さずとの姿勢を示しますが、問題は、チェコスロバキアがフランスと同盟関係にあり、ドイツが軍事侵攻すると、フランスが参戦する可能性が高かったことでした。

 「ミュンヘン会談への道」を書いた帝塚山大学の関静雄名誉教授によれば、この状況を見たイギリス首相チェンバレンは、仮に、独仏戦争になった場合に、イギリスの国内世論が、参戦やむなしと主張する一派と戦争は真っ平だとの非戦派に分裂する恐れがあると懸念し、この問題を傍観できないと考えました。当初、チェンバレンは、抜き差しならぬコミットメントを避けるため、政府とは関係ない個人使節を派遣し、チェコスロバキア政府とズデーテン・ドイツ人の仲介をさせますが、上手くいきません。その後の危機の高まりの中で、ついに彼は、ヒトラーと直接会談に赴くことを決断し、1938年9月15日にドイツのヒトラーの山荘に出向きます。

 会談で、ヒトラーの戦争も辞さずとの姿勢を肌で感じたチェンバレンは、戦争を避けるためには、チェコスロバキアにズデーテン地方を割譲させるしか方法はないと考えます。会談からの帰国後、9月18日に、チェンバレンは、フランスのダラディエ首相と会談し、ここで彼は、ズデーテン地方の割譲案を提示します。ダラディエは、直ぐには応じませんでしたが、ドイツとの戦争になった場合にイギリスの支援が不可欠であるとの考慮から、チェンバレンの提案を拒否することができず、ズデーテン地方割譲後の残部チェコスロバキアの安全保障に英国が加わることを条件にチェンバレンの提案を承諾します。チェンバレンは、この条件について、イギリスには遠いチェコスロバキアを防衛する能力はないので、保障は純粋に“抑止的”なものと留保をつけます。しかしながら、関教授は、この保障はイギリスにとって中東欧の安全保障問題への不可逆的な深入りに近い、政策の一大転換だったと述べます。

 実際、このコミットメントは、半年後にイギリスの身に大きく降りかかります。と言うのは、その後、英独仏伊の四首脳で行われたミュンヘン会談で、これ以上の領土拡張はしないとのヒトラーの約束を信じて、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決まったにもかかわらず、半年後、ヒトラーは約束を違えて、軍事侵攻により、チェコスロバキアを解体したからです。

 公然と保障を踏みにじられ、侵攻に対し何もできなかったイギリス国内では憤激の声が高まり、チェンバレンは、次の侵略の対象になったポーランドに、一方的に安全保障を提供することになります。その後、ドイツがポーランドを侵攻したことから、イギリスは、ドイツに宣戦布告、第二次大戦が始まります。歴史家A・J・Pテイラーは、その著書で「(チェコスロバキアへの)保障は、履行を迫られることはないとの確信の下で、僅かに残るフランスの最後の戸惑いをなくしてやるだけのために与えられた。英仏首脳会談が行われた1938年9月18日夜、ダラディエはイギリスを第二次世界大戦に巻き込む決定的な一押しを与えた」と書いています。後世の者の浅はかな後知恵ですが、あることをやり過ごすためだけにとった行動が後に極めて重大な事態を招くことになるという事例の一つだと思います。

 鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

最新ニュースLATEST NEWS