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ウィーン会議 「会議は踊る、されど進まず」の真意

「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたウィーン会議

 ナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議と言えば、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄され、舞踏会ばかりで、成果の乏しい国際会議であったとの印象です。しかしながら、多くの歴史家は、ナポレオン戦争後から第一次世界大戦まで、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争がなく、ほぼ百年におよぶ平和の時代の礎を作り出したのは、ウィーン会議であり、それは最も巧くいった戦後処理だったと指摘しています。平和を生み出した要因は、再び革命と戦争が起きることの恐怖から、フランス革命前の政治体制に戻そうとの指導者達のコンセンサスと主要国間の力の均衡の構築だったとされていますが、興味深いことに、国際政治学者の高坂正堯(まさたか)は、その名著「古典外交の成熟と崩壊」において、踊る会議のスタイル自身が平和構築に貢献した重要な要因だったと主張しています。

 「会議は踊る」という言葉を残したのは、オーストリアのリーニュ老公爵シャルル・ジョゼフという人物ですが、彼は、しかめ面で進まない会議を見ていたのではなく、率先して踊り、楽しみながら「ここでは快楽の追求が平和を実現しつつある」と述べたそうです。ウィーン会議はフランス革命が打倒しようとした貴族階級の人々が主導しましたので、彼らの社交の場であるサロンの雰囲気の中で行われたと高坂は言います。

 サロンは、女主人公が主催し支配的な役割を果たしていましたが、そこでは、政治のことだけをしかつめらしく論理一貫して語ることはおよそ不人気であり、愛を語り、芸術について論じながら、遊びの感覚で政治を語るのがスタイルでした。

 そうした雰囲気のサロンに参加した人々は、理想や情熱をたぎらせて社会構造の大変革を実現しようする試みは、自然に反する愚かなことであり、人間の能力を超える危険なことだと見なしていました。同様に、ウィーン会議の参加者たちも、フランス革命のように力づくで事業を推進することには、反対でしたし、また、自分たちと対立する考えと戦う時にも、強引な行動は控えました。ウィーン会議の議長を務めたオーストリア外相メッテルニッヒの敵対するナポレオンへの対応はその典型でした。

 ロシア戦役に敗れて逃げ帰るナポレオンに対して一気に事を決しようとするロシアやプロシアに対して、彼は水を差すようなことを敢えてして、ロシア・プロシア軍とナポレオンとの仲介の労をとろうとします。メッテルニッヒは、「強大すぎるフランスは危険だが、フランスをなくすことが不可能な以上、いかにしてフランスに適当な位置を与えるかが重要」と考えていたようです。彼は、ナポレオンとの戦争を好敵手との「ゲーム」のように見ており、遮二無二、ナポレオンの打倒という目的に邁(まい)進することは、ゲームそのものを損ねると考えていたのではと高坂は、分析します。

 高坂は「勝つことが唯一の目的であり、ただ危険であるという理由だけでルールを守らなくてはならないという場合には、ルールは全く弱々しい存在でしかない。勝つという目的だけが重要ではなく、ゲームそのものが重要であって初めてルールは確固たる座を得る」と述べています。おそらくこれは、各国が過剰な勝利の追求を行えば、ゲームのルールの崩壊を通じて、ゲームそのもの、即ち国際社会全体の調和や均衡が壊されることになり、ついには全ての国が安全を得られなくなることを言わんとしたのではと私は解釈します。“怠惰を誇ることを通じて過剰を排除”し、“自制を尊ぶ心”こそがウィーン会議の参加者に共有された精神であり、この精神ゆえにヨーロッパ主要国間の勢力均衡は維持され、ヨーロッパの平和を支えたと高坂は説明しています。

 しかし、こうしたウィーン会議のスタイルは、フランス革命以前の旧制度のものであり、フランス革命が解き放ったエネルギーによってやがて粉砕されることになります。その結果、ヨーロッパ各国は、力の虜になり、第一次世界大戦へ突入していきます。

 国家は、国際社会の舞台において、国益の追求を行うものだと言われます。自己主張はもちろん必要ですが、それが“自制”の伴わない形で行われれば、結局は破滅の道に向かうことを歴史は教えていると思います。

 鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

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