創刊70年を迎える『朝雲』は自衛隊の活動、安全保障問題全般を伝える
安保・防衛問題の専門紙です

前事不忘 後事之師

第78回 大津事件-明治日本を震撼させた事件-


 大津事件は、明治24年(1891年)5月11日に国賓として来日していたロシアの皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ二世)が滋賀県大津で警備にあたっていた津田三蔵巡査に切りつけられ負傷した事件です。

 この突発事件に明治天皇や時の政府がとった対応は、今の私たちも学ぶべきものが多いと感じます。ポイントは、事件が起きたのが明治24年だったことです。大日本帝国憲法発布の二年後、漸(ようや)く日本が近代立憲国家として歩みを始めた時期でした。幕末の黒船に代表される列強の砲艦外交の記憶も残っており、実際、ロシア皇太子は軍艦7隻を引き連れての訪日でした。最悪の場合、ロシアとの戦争になると日本国中が「恐露病」の様相を呈し、極端な謹慎の意を表した山形県のある村では、「津田」姓および「三蔵」の命名を禁ずる条例を決議するほどでした。

 事件を知らせる一報を聞いた明治天皇は直ちに御前会議を開催、事件翌日早朝に新橋を出発して京都に赴き陳謝をかねてニコライ皇太子を見舞うことを決断。夜に京都に到着した天皇は、皇太子が宿泊している京都のホテルに赴く予定でしたが、ロシア側の意向により、翌日昼に面談が実現。天皇は皇太子に心からの慰問を行いました。慰問の後、天皇はロシア皇帝に「傷は軽くお元気であり、快癒するのも早い」旨の電報を発信。天皇の素早い誠意に満ちた対応を受け、ロシア皇帝からも「陛下のご配慮に感謝いたします」との返電がありました。しかしながら日本側の懸念は解消されません。警備の任にあたる巡査が危害を加えたことから、ロシア側は日本の警備を信頼せず、皇太子を神戸停泊中のロシア軍艦に移したいと言いだします。さらにロシア軍艦までの移動中の安全を心配したロシア公使は「天皇陛下に神戸まで皇太子と同行して欲しい」旨、涙ながらに嘆願します。天皇は即座にその願いを受け入れ、皇太子を自らのお召し列車に同乗させて神戸に連れて行き、神戸港の桟橋で皇太子を見送りました。それ以降も日本側の心配は続きます。我が国は皇太子が引き続いて日本訪問を行うことを希望していましたが、ロシアに帰国せよとの皇帝の命令が届いたからです。ロシアは事件を理由として日本に賠償を求めてくるのではとの懸念が広がりました。ところが、天皇、政府、国民が難にあった皇太子に誠意あふれる態度を示したことにロシア皇帝が十分満足しており、事件についての賠償は一切要求しないと述べたことが伝わり、日本側関係者は安堵で喜びの声をあげました。天皇はこの後、心配する侍従たちの反対を押し切って、皇太子の招請に応じて、ロシア軍艦での午餐に出席します。小説家吉村昭はこの場面について「ニコライ皇太子の態度には、天皇に対する深い敬意の念があらわれ、天皇の人格に強く魅せられているのが感じられた」と記しています。

 皇太子の離日後も、日本側での事件処理は続き、津田三蔵にどのような処罰を与えるかが焦点となります。政府側の大逆罪で死刑にすべしとの圧力に抗して、大審院は民間人に対する謀殺未遂罪であるとして無期懲役の判決を下します。無期懲役の判決で収まったのは、ロシア側が判決を受け入れたからでしたが、ロシアが判決に異論を唱えたら別の展開になったかもしれません。

 大津事件の処理が上手くいったのは、事件後、速やかに明治天皇が心のこもった謝罪の姿勢をロシア皇帝やロシア側に示し、またその姿勢がニコライ皇太子の心にも響いたからです。危機に際して、トップに立つ人物が直ちに適切な行動を起こすことが危機管理の要諦ですが、明治天皇の対応はその模範でした。明治の指導者のこのような態度の背景にあったものは、切迫した危機意識で、大国ロシアから賠償として北方領土の割譲要求をされたり、戦争をしかけられたりするのではとの恐怖感でした。この事件から40年後の1931年(昭和6年)我が国は満州事変を起こします。日清、日露の両戦役に勝利し、一等国の仲間入りをしたとの自負があったのかもしれませんが、日本の指導者や国民の意識からは外国を恐れる気持ちは薄れていました。そうした意識の変化こそ日本が太平洋戦争に突入した要因の一つだったのではないかと私は考えます。

鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

最新ニュースLATEST NEWS