創刊70年を迎える『朝雲』は自衛隊の活動、安全保障問題全般を伝える
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前事不忘 後事之師
第77回 チャーチルの決断
第2次大戦の結末を知っている私達はヒトラーの敗北は必然と考えがちですが、時計を1940年に戻すと全く違った光景が現れます。この年の5月10日、ドイツ軍装甲部隊は通過が困難と見られていたベルギー領アルデンヌの森からフランスに侵攻。虚を突かれた英仏軍は英仏海峡方向へ混乱しながら退却、5月25日までに34万の英仏軍の将兵が利用できる港はダンケルクだけとなり、彼らは海とドイツ軍との間に挟まれ全滅の危機にありました。当時の英国外務次官は、日記に「奇跡が起こらなければ我々は一巻の終わりだ」と書きました。
チャーチルが英国首相に就任した日はドイツが奇しくも侵攻を開始した5月10日でした。4月のノルウェー戦線での失敗の責任を問われチェンバレン首相が辞職したからでしたが、後任候補は海相のチャーチルと外相のハリファックス卿。チェンバレン首相と多くの与党議員はハリファックスを推していましたが、彼は貴族院議員の自分には下院を統制できないと首相就任を断わり、チャーチルに首相の座が転がり込みます。戦争遂行のための少人数からなる戦時内閣には前首相のチェンバレンと引き継いで外相となったハリファックスが参加しましたが、この戦時内閣では5月25日から28日にかけてその後の世界の行く末を決める議論が行われました。議論の焦点は戦争継続の可否についてであり、未だ参戦していないイタリアのムッソリーニに仲介を依頼してヒトラーとの和平交渉に入るか否かということでした。
ハリファックスは、ムッソリーニはドイツがヨーロッパの覇権を握ることを歓迎しないはずなので彼に仲介を依頼すべきとの考えでしたが、チャーチルは「破竹の勢いのヒトラーが我々が受け入れ可能な条件で合意することはあり得ない」として交渉を否定、「戦いに負けた国民は再起できるが、不甲斐なく降伏した国民はそこで終わりで、戦わないよりも戦って負けた方がましだ」と主張。
平和な時代を生きる私たちは、争いは話し合いで解決すべきとの考えなので、甚大な犠牲が予想されるドイツとの戦いを主張する前にわずかでも望みがあれば交渉の席につき和平の選択肢を検討すべきとのハリファックスの意見は理性的に聞こえます。しかしながら、交渉の席につけばそれだけで何らかの譲歩が不可避となり、さらに政府が一旦和平を検討するような素振りをしていることを国民が知れば、再度、国民の戦意を昂揚することが難しくなります。二人の議論は紙一重でしたが、議論の勝負を決めたのはチャーチルの弁舌でした。チャーチルは全滅の危機にあった34万の英仏軍のダンケルクからの奇跡の撤退を受けて6月4日に議会下院で「我々は海岸で戦い、平野で戦い、決して降伏しない」と演説を行い国民の支持を獲得、英国は戦争継続を選択します。
歴史家イアン・カーショーはこの議論の結果は歴史を変えた「運命の決断」であるとし、もし英国がヒトラーとの交渉を選択した場合を次のように予想しています。「1940年、晩春から夏にかけての(ドイツが圧倒的な)状況では何らかの和平条件に到達できたとしても英国を徹底的に弱体化する以外の妥協はあり得なかった」「ドイツ寄りとなった英国には米国のルーズベルト大統領も物資援助、軍事的支援を直ちに停止しただろう。西欧を確保しアメリカからの脅威に対して遠くにあるヒトラーは全神経を今や英国の支援を受けて『生存圏』確保のためソ連に集中する」
チャーチルの戦争継続の決断を受けて、ヒトラーはその決断の背後にはソ連の存在があると考え、翌年、ソ連攻撃に打って出ますが、これが命取りになりました。確かにチャーチルの決断には大きな負の側面もありました。しかし、その後の歴史を踏まえると、彼の決断は米国の参戦を可能にするとともにドイツをソ戦との戦いに向かわせ、ドイツの敗北とソ連の勝利を生み、チャーチルの望むものではなかったと思いますが、大戦後に米ソが台頭する素地を作りました。
中国の歴史家司馬遷は歴史書『史記』を書くに際して、人物を中心に歴史を著述する「紀伝体」を選択しました。歴史を作るのは個人であると考えたからでしょうが、20世紀の歴史を見ても彼の考えは的外れではないように考えます。
鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)