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前事不忘 後事之師

第76回 風林火山の意味を読み解く (その二)


 前回、司馬遷の史記に書かれている「桂陵(けいりょう)の戦い」の説明をしました。ところが、1972年に前漢時代の墓から出土した竹簡(ちくかん)によれば、この戦いは、史記に記載されている以上に複雑であることが判明し、その分析により、孫子の兵法の「迂直(うちょく)の計」「軍争」を解く鍵が得られることになりました。

 戦いは、魏が隣国の趙の都、邯鄲(かんたん)を攻め、趙が斉に救援を求めたことが契機です。斉王は将軍の田忌(でんき)に命じて軍を率いて、趙の救援に向かわせますが、魏は斉が救援に来ることを予想し、斉から邯鄲に向かう途中のし丘(しきゅう=しは草かんむりに在)を占領して待ち構えていました。将軍の田忌はそれでも邯鄲に向かおうとしますが、軍師の孫ぴんはそれを押しとどめ、大きく南に向かい、魏の中心都市で難攻不落の城である平陵(へいりょう)の攻撃を進言し、配下の軍事に無知な二人の将軍に正面攻撃させるよう勧めます。田忌は進言に従い、二人の将軍に攻撃を命じますが、難攻不落の平陵攻撃は大失敗し、二人の将軍は戦死します。

 田忌はどういうつもりかと孫ぴんに訊ねると、孫ぴんは軍の一部に魏の都の大梁(たいりょう)郊 外を荒らし回らせ、魏を怒らせながら、依然として平陵に留まって絶望的な攻城戦を続けているように見せかけましょうと答えます。田忌がそれを実行すると魏軍は邯鄲攻略を中止し、平陵攻囲中の斉軍を背後から衝こうと、輜重(しちょう)部隊を置き去りにしたまま、昼夜兼行南下してきますが、孫ぴんは軍を平陵から北上させ、疲労して駆けつけてくる魏軍を桂陵の地で待ち受け、さんざんに撃ち破ります。

 浅野裕一東北大学名誉教授は、この桂陵の戦いこそ、孫子が言う「迂直の計」だとして、次のように分析します。

 先ず魏が包囲する邯鄲を戦場とするのは、魏軍が先着していることに加えて、魏が斉の来援を予期して経路途中に軍を置いているので斉にとって不利です。そこで次に平陵攻めを行うのですが、その意図は自軍にとって無用な将軍二人をだしに使い、わざと難攻不落の城を攻めさせ戦死させることにより、自軍の苦境を演出して相手を油断させることでした。その上で、魏の都周辺を荒らし回り、魏を激怒させます。怒った魏軍は窮地にある斉軍を一挙に撃滅しようと輜重を捨てて昼夜兼行で南下して来ますが、魏軍の戦力は先細りで、孫ぴんはこれを途中の桂陵で待ち受け撃破します。

 この戦いの分析から、浅野教授は、戦場をある一箇所に固定して考える従来の「迂直の計」についての解釈は誤りであり、桂陵の戦いで見せた孫ぴんの戦術のように、戦場を自軍にとって有利な場所に変更することにより、一見、戦場に遠い迂回路を進みながら、最終的にはそれを戦場に直結する最短の近道に変えることだと主張します。しかもそれを実現するにあたり、邯鄲に先着できないこと、平陵の攻撃に失敗したことなどの自軍の憂患を魏軍を誘い出す餌とすることによって、自軍の利益に転換します。これこそ孫子の兵法にある「迂を以て直と為し、患いを以て利と為す」「其の途を迂にしてこれを誘うに利を以てし、人に後れて発して人に先んじて至る」の意味です。

 「軍争」については、水野実防衛大学校名誉教授は、「軍」には陣取る、駐屯するの意味があることから、軍争とは「本格的な合戦の前の陣取り争い」であり、孫子は、戦場に先着することが極めて重要であり、さらに桂陵の戦いのように戦場をどこにするか主導的に決めることが圧倒的に有利だと考えていると説明します。

 水野教授は、軍争篇にある風林火山の四句とその後に続く「陰」と「雷(いかづち)」の二句を加えた六句は、迂直の計のように、軍争(戦場に先着する争い)に勝つために、敵に自分の意図を隠す一種のカモフラージュ作戦であると解説します。

 我が国では、これまで武田軍団の勇猛なイメージから、風林火山は圧倒的な力で敵をなぎ倒すイメージを連想させる言葉として解釈されてきました。しかし、浅野・水野両教授の説明に従えば、自軍の意図を偽って敵将の判断を誤らせる偽計の教えです。浅野教授によれば武田家の軍書である「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」には、中国兵法は有効性に欠けると指摘する信玄の発言が記録されているそうですが、本当のところ、信玄は、どこまで風林火山の真意を理解していたのだろうかと私は考えます。

鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

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