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前事不忘 後事之師

第74回 ヒットラーの失敗の始まり

1938年9月のミュンヘン会談に出席した(左から)チェンバレン英首相、ダラディエ仏首相、ヒットラー独総統、ムッソリーニ伊首相

 ロシアがスラブ系の兄弟国ウクライナに突然に軍事侵攻しました。

 報道を見ながら、今から80年以上前の第2次大戦開戦までのヒットラーのドイツと英仏とのせめぎ合いを思い出し、キッシンジャーの『外交』を読みなおしてみました。

 1933年に政権についたヒットラーの当初の行動の狙いは、第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制の打破でした。35年、再軍備宣言を行い、翌年にロカルノ条約で非武装地帯とされていたラインラントに陸軍を進駐させます。この行動はヒットラーにとって賭けでした。戦争準備ができていなかったので、英仏がこれに軍事介入したら、ドイツ軍は撤退することが命じられていましたが、英仏とも行動を起こしませんでした。不介入の理由は「自国の国境を防衛する権利はドイツにも認められる」というものでしたが、キッシンジャーによれば、これは戦略的に重大な失敗でした。ドイツがラインラントの要塞化を実現すれば、仏の攻撃の脅かしによりドイツを牽制できなくなるからです。

 ヒットラーのヴェルサイユ体制への挑戦は続き、38年3月には同じドイツ民族の国オーストリアを併合し、その後、狙いをチェコスロバキアに向けます。ヴェルサイユ体制では民族自決の原則に基づき、中・東欧にチェコスロバキア、ポーランドなどの国が創設されますが、ドイツ人には民族自決の原則が認められずに、ドイツ人が大宗を占めるズデーテン地方はチェコスロバキアが領有しました。仏がチェコスロバキアと同盟を結んでいたことから、仏およびその盟友英国とドイツとの間で戦争の危機が高まります。

 英国のチェンバレン首相はヒットラーに対する宥和政策を選択しますが、理由の一つは、ヒットラーの要求は民族自決権に基づく限定的なものであり、それを認めればヨーロッパの現状維持は可能であるという判断でした。1938年9月、ムッソリーニの仲介によりドイツのミュンヘンで英・独・仏・伊による首脳会談が行われ、ズデーテン地方のドイツ帰属が決定、戦争の危機は回避されます。

 ヒットラー外交の勝利に見えますが、ヒットラーは会談で終始不機嫌でした。理由はチェコスロバキアへの軍事侵攻を狙っていたのですが、外交により阻止されたからです。ヒットラーの最終的な狙いは、チェンバレン首相が宥和政策の前提としていた民族自決権に基づく限定的なものではなく、彼の著書『我が闘争』にあるように中・東欧からロシアにかけてゲルマン民族の「生存圏」を獲得することでした。『我が闘争』をしっかり分析すべきだったと歴史学者の何人かは言いますが、ヒットラーのプロパガンダ担当のゲッペルスが「我々はドイツの真の目標が敵に察知されないことに成功した」と語っているように、多くの指導者がヒットラーの本質を見誤っていました。

 ヒットラーはミュンヘン会談の半年後に本性を明らかにします。これ以上の領土拡大はないとの約束を違えてチェコスロバキアに軍事侵攻し、チェコスロバキアを解体します。しかし、後から見るとこれがヒットラーにとっての失敗の始まりでした。キッシンジャーは言います。「ヒットラーは、彼の目標がヴェルサイユ体制を同体制が標榜している(民族自決などの)諸原則に見合ったものにすることであると彼の敵対者が信じていた時までは全ての戦いに勝利していた」「しかしながらヒットラーの理解を超えていたのは、道徳的に許容される線を踏み越えた途端、それまで民主主義諸国に柔軟性を生み出してきた同じ道徳的完全主義が比類のない頑迷さに変わってしまうことであった」

 ドイツがチェコスロバキアを軍事占領した後、英国世論はそれ以上の譲歩を許さず、ヒットラーの次のターゲットとなったポーランドに英国は一方的に安全保障を提供、ドイツのポーランド侵攻とともに第2次大戦が起こり、結局、ヒットラーは敗退します。

 歴史のあと知恵かもしれませんが、道義は力が物を言う国際政治において無力に見えることもありますが、大きな影響力を発揮することがあります。

 今般、プーチン大統領は力による現状変更を行い、国際的な道義を踏みにじりました。プーチン大統領の選択がロシアの国益にとっても本当に良いものだったのか、やがて明らかになります。

鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

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