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前事不忘 後事之師
第119回 満州事変の背景 ――Even a spark dies without fuel.

幣原喜重郎

田中義一
満州事変(1931年)は、政府の統制を無視した関東軍の暴走によって引き起こされたとよく言われます。もちろん、それは事実ですが、政治学者馬場伸也の著書「満州事変への道」を読むと、関東軍の暴走だけを事変の原因だと見なすのは短絡的なようです。
馬場は著書で、当時の日本に存在した、相反する二つの外交路線(幣原外交と田中外交)を比較・分析しながら、満州事変が起きた背景を説明しています。
まず、幣原外交ですが、これは外交官出身の外務大臣幣原喜重郎が推進した「国際協調路線」です。他方の田中外交は、職業軍人から総理大臣となった田中義一が推進した「力を背景とする積極路線」です。
二人は大正末期から昭和初期の7年余りの期間を交代して日本の外交のかじ取りを行いましたが、これほど真逆な路線が連続したことは歴史上ないでしょう。
駐米大使時代にワシントン会議に日本の全権代表として参加した幣原は、国際協調主義が信条で、国益は列国との協調をみださない限りにおいて追求されるべきであり、各国には国際社会の一員として世界平和を維持しなければならない義務があると信じていました。
当時、大きな外交上の懸案であった対中国政策については「内政不干渉政策」を主張し、満蒙(満州・内蒙古地域)問題に対しても、条約で日本に認められた「権益」は守るべきだが、それは日本を含む列国が九カ国条約で合意した中国の主権尊重などのルール内で行われるべきとの考えでした。
一方の田中は、参謀本部次長時代にシベリア出兵での手腕が認められ、その後、陸軍大臣、内閣総理大臣と出世の階段を駆け上がった人物で、日本固有の文化と伝統を守り抜くことが重要であるとの強い保守的信念の持ち主でした。
田中の国際関係に対するイメージは戦国時代の武将同士の関係であり、列強は全て権力と利益の争奪を計り領土の拡大を狙っている、従って国際法や会議で平和を維持するなどは夢物語であり、頼れるのは、どこの国と戦っても絶対に負けない軍隊を育成することだとの考えでした。
満蒙については、ロシアの南進を阻止するという戦略的見地、満蒙の領土と資源を獲得して国力を増進する重要性、究極的には大陸への発展の足掛かりの確保などの観点から、満蒙に日本の特殊地位を確立する積極策を主張しました。
その後の日本の外交路線において、もし幣原外交が選択されていたなら、満州事変は成功せず、我が国の歴史は大きく変わっていたと思います。しかし、そうはなりませんでした。田中の政策ですら、腰のすわっていない、優柔不断なものだとして、より強硬な満蒙政策を主張する関東軍内のグループが満州事変を起こし、その処理に失敗した幣原外交は瓦解(がかい)します。
馬場は、そうなった理由は、大衆により積極的な満蒙政策を望む心理状態があり、そうした心理の背景には当時の日本の社会・経済上の課題があったと説明します。
第一は経済状況の悪化です。第一次大戦中の戦争景気は、大戦が終了すると停滞し、それに追い打ちをかけるように、1923年に関東大震災が発生。政府は復興のために大きな財政負担を背負いこみ、これが原因となって金融恐慌が勃発しました。多くの失業者が発生すると共に、農産物価格の暴落によって農村地域が疲弊。
この状況から回復できないままアメリカ発の世界恐慌の直撃を受けることになりました。第二は人口問題でした。当時の日本は、人口が年々百万人近く増加する状況にあり、深刻な食糧問題が懸念されていました。こうした難問を一挙に解決する対策として、浮かび上がってきたのが満蒙の広大な土地と無尽蔵の資源を利用し、その開拓と人口問題解決の一石二鳥を兼ねて移民を行い、そこに日本の産業の振興を図るというアイデアでした。
中国国内での軍閥同士の争いや蒋介石による北伐の動きも満蒙問題への関心を呼び、すでに満州事変の数年前の1924年、25年頃から満蒙問題が朝野でやかましく議論され、そこでは幣原外交が消極的、軟弱だと非難されていました。
進歩的とされていた朝日新聞も1926年の社説で「最近の政府の満州に対する処し方は外務省の自由主義にかぶれた顕著な一例である」と書き、帝国議会でも、「日本国民が血と肉とによってかち得た満蒙の利益保全に対して、幣原外交は消極的だ」と攻撃されました。
こうした馬場の説明を踏まえると、満州事変が生起する以前から、日本の朝野に満蒙を日本の影響下におくべきとの意見が根強く存在し、そうした背景の中で関東軍による満州事変が発生したことが分かります。
英語に「Even a spark dies without fuel.」(燃料がなければ、火花も消える)との言葉があります。
第一次大戦の契機となったサラエボ事件もそうですが、戦争の“燃料”となる「構造的要因」がなければ、“火花”だけでは戦争は起きないものです。
鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)