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前事不忘 後事之師

第87回 シュリーフェン・プラン


シュリーフェン


モルトケ

 国際政治学者の高坂正堯は、第一次世界大戦を地すべりによって引き起こされた戦争と述べています。オーストリアの皇位継承者がセルビアの青年によって暗殺されたことに端を発するバルカン危機が同盟関係を通じてヨーロッパ主要国同士の戦争になったことを譬(たと)えたものですが、地すべりを起こす上で、決定的な役割を果たしたのが、ドイツの作戦計画(シュリーフェン・プラン)でした。このシュリーフェン・プランは、国家統一後のドイツが東西を露仏に囲まれるという地政学的課題への軍人シュリーフェン参謀総長の解答でした。露仏同盟の成立により二正面作戦を強いられたドイツが戦争になった場合に、広大なロシアは動員に時間がかかるので、まずは中立国ベルギーを経由してフランスを撃破し、その後、兵力を東進させてロシアを叩(たた)くとの計画でしたが、これには重大な政治問題が包含されていました。それは、イギリスにとって戦略的要衝である中立国ベルギーを攻撃することであり、イギリスの参戦を招く可能性があったということです。実際に1914年の8月、開戦とともに計画が実施されると、イギリスは露仏側に立って参戦します。

 ドイツのジャーナリスト・歴史家であるセバスティアン・ハフナーは、「1914年の戦争の可能性は、ドイツ帝国宰相ベートマン・ホルヴェークによって、シュリーフェン・プランとは全く別に考えられており、その考えのポイントは、戦争は起こるだろうが、その時にドイツが勝利するための最も重要な条件は、イギリスに中立を保たせることであった」と書いています。

 ハフナーによれば、オーストリア皇位継承者が暗殺されたことによるバルカンを巡る突然の戦争は、この条件を満たしベートマンは、ドイツにとって有利であると考えたようです。イギリスは、純粋な東方での争いであれば、重大な国益は懸かっていないので、介入することはないし、仮に露仏同盟により、フランスが西部地域でドイツを攻撃してもドイツが守勢をとれば、イギリスの参戦はないだろうと考えていたからです。

 ハフナーは、こうした考えを有していた宰相ベートマンがシュリーフェン・プランの説明を受けたにも関わらず、それを黙殺していたことを「永遠の謎」であるとしています。私は、ドイツ統一時の宰相であったビスマルクであれば、異なる対応だったと想像します。実際、ビスマルクは普仏戦争の勝利後、フランスの復讐を警戒していました。このため、フランスをヨーロッパで孤立させ、ロシアをドイツ側に繋(つな)ぎ止めておくためにオーストリアを含めた君主国からなる三帝同盟を結び、同盟がバルカンでのロシアとオーストリアの利害対立で崩壊した後は、秘密裏にロシアと再保証条約を締結します。要すれば、ビスマルクは、ヨーロッパ中央に位置し、強国に囲まれているドイツの地政学的な課題へ政治外交的な対応をとっていたということです。ビスマルクの退場とともにそれが消滅し、ドイツを囲む形で露仏同盟が締結されます。

 高坂は、シュリーフェン・プランを作成したシュリーフェン参謀総長と普仏戦争を戦ったモルトケ参謀総長の二正面作戦への対応について比較をしています。

 モルトケには、普仏戦争でフランス軍を短期間で撃破したにもかかわらず、大衆蜂起の抵抗を受け、フランスを降伏させるのに苦労した経験があった。“勝利の中から自らの力の限界を悟る人間は偉大”であるが、モルトケはそのような将帥だった。このため、二正面作戦に明白な勝利はあり得ないという前提から考えを進め、二正面作戦をする場合であっても、撃破しやすい敵(ロシア)をまず叩いて衝撃を与え、外交による解決の機会を作ろうと考えた。これに対し、シュリーフェンは純粋だが、視野の狭い軍事技術者だった。自分の責任である軍事問題だけに精力を注ぎ、二正面作戦は、軍事努力だけではなんともならないことなど問題にせず、二正面作戦の可能性がある以上、いかにして勝つかを考える(勝利の追求)という態度であった。

 脅威に対し外交的な対応を考える強力な政治指導者が不在で、軍事的勝利のみを追求する将軍に対応が委ねられた時にどうなるかということをシュリーフェン・プランは、示していると思います。

鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

 

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