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前事不忘 後事之師

第86回 死に処するは難し ―「史記廉頗(れんぱ)・藺相如(りんしょうじょ)列伝」―


璧は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器

 「完璧」という言葉は、司馬遷の史記「廉頗(れんぱ)・藺相如(りんしょうじょ)列伝」に由来します。

 時は、中国の戦国時代。趙の国は、名宝と言われた和氏(かし)の璧(へき)を手に入れます。これを聞きつけた強国、秦の国王が璧を手に入れようと考え、趙王に璧と秦の国の十五城の交換を提案します。趙王は大臣たちと相談します。璧を秦に渡しても騙(だま)されるかもしれず、もし璧を渡さなければ、秦が攻めてくるおそれがある。議論は決しません。この時、繆賢(びゅうけん)という宦官(かんがん)が自分の家人に藺相如という智謀に優れた者がいると趙王に伝えます。

 趙王は相如(しょうじょ)を召し出しどうすべきか尋ねます。これに対し相如は、「璧を渡さなければ趙が責めを負い、仮に璧を渡しても城を渡さなければ秦が責めを負います。二策を比べれば秦に璧を渡すのが良いと思います」と答え、自ら璧を持って秦に向かいます。秦王は、相如を引見し、璧が手に入ったと喜び、それを侍女たちに回して見せます。この対応を見た相如は、秦王には、城を渡す気持ちはないと判断。そして、やおら進み出ると、「璧には傷がありますので、お見せします」と言って、璧を取り戻し、後ずさりし柱を背にして、怒髪が冠を衝く勢いで、秦王に言い放ちます。

 「秦王様から、璧と城を交換したいとの提案があり、趙では議論を行いましたが、璧を渡したいと考えた者はいませんでした。しかし、庶民でも約束は守るので、大国の秦ならば約束は守るはずと私は趙王を説得しました。趙王は璧を渡すにあたり秦国に敬意を払い5日間にわたり身を清めました。しかるに秦王様におかれては、璧を侍女たちに見せ回して慰み物として扱っておられる。この様子では代りの城をくださらないと考え、璧を取り戻しました。もし、力で取り返そうとするなら、私の頭を璧もろとも柱にぶち当てて壊します」

 秦王は、あわてて地図を持ってこさせ、十五城の話をしたが、本心では城を渡す気がないと見た相如は、璧を受け取る儀式として、秦王も5日間、身を清めるよう要求、その間に、従者に璧を持たせ、密(ひそ)かに趙へ帰らせました。清めの儀式を終えた後、秦王は、璧はどうしたと聞くと、相如は、「秦王様には、城を渡すつもりが無いように見えたので、既に趙へ持ち帰らせました。王を欺いた罪は死にあたります。煮殺されても本望です」と答えます。秦の群臣たちは、相如を引っ立てようとしますが、秦王は「殺したとて璧は手に入らない」と許します。

 藺相如の命がけの対応で、璧が無傷で趙に戻ったことから、「完璧」という言葉が生まれます。藺相如は、その後再び、趙王の窮地を救ったことから、趙王は彼を上卿という位に親任しますが、これが趙内で波乱を生みます。趙の将軍として功績を挙げ、既に上卿になっていた廉頗(れんぱ)が相如の昇進に怒ります。「わしは、戦争において大功を挙げた。相如は、宦官の家臣という卑しい身分で、また口先ばかりの働きをしたに過ぎない。それなのに、高い地位に就いた。会ったら恥辱を与えてやる」と言いふらします。相如は、これを聞き、廉頗を避け、その姿を見ると、物陰に隠れます。これを見た相如の近侍たちは臆病な人間に仕えたくないと言い出します。相如はこれに「秦王の威勢でさえ、怖れなかった自分が廉将軍を恐れようか。考えてみよ、強大な秦国が我が国を攻撃しないのは、わしと廉将軍がいるからだ。もし両虎が闘えば、どちらかは倒れる。わしがこうしているのは、国家の急を先にするからだ」と述べます。

 この相如の言を伝え聞いた廉頗は、相如の家の門の前で肌脱ぎして茨で自分を鞭打ちして謝罪、その後、二人は刎頸(ふんけい)の交わりを結び、ともに趙のために働きます。

 人物評価に厳しい司馬遷は、藺相如について、智と勇を兼ね備えた人物であると高い評価を与えた上で、彼の命がけの対応を踏まえて、「人は死ぬとわかれば勇気が出る。死ぬことが難しいのではない。『死に処するは難し』(どうやって死に対処するのかが難しい)」と書きます。

 私事ですが、昨年11月に親しい友人を亡くしました。病気を静かに受けいれた上で、看護してくれた妻への「ありがとう」の言葉を残し、穏やかな最後だったと聞きました。「冠(かんむり)を正して逝(い)った人」だったと思います。

鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)

 

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