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前事不忘 後事之師
国際政治における道義
ハンス・モーゲンソーの著書「国際政治」
ロシアのウクライナへの軍事侵攻という力による現状変更の試みを目の当たりにして、多くの人々が国際政治の世界では、暴力を抑制する倫理や道義が存在していないと感じているように思います。著名なリアリスト派の国際政治学者ハンス・モーゲンソーは、その著書「国際政治」の中で、「国際政治に及ぼす倫理の影響力を過大評価したり、過小評価したりしてはならない」と述べた上で、かつてヨーロッパには、超国家的な道義規準が存在していたことを説明しています。
ヨーロッパの政治を1648年のウェーストファリア条約から第一次世界大戦までの期間を俯瞰すると、時々の盛衰や国によっての差はありますが、政治の中心には王侯貴族がいました。モーゲンソーは、そこでは“貴族インターナショナル”(主要各国にまたがる貴族コミュニティー)が形成されていたと述べます。これに属する貴族たちは、家族の絆、共通の言語(フランス語)、共通の文化的価値と生活様式を有しており、彼らは、貴族でない同国人よりも他国の貴族に親近感を持っていました。同じ家族の者が別々の君主に仕えることも、仕える君主を変えることも通常でした。彼らは、自らが仕える君主を雇い主と見なし、王朝や国家に対する忠誠よりも自らが属する貴族社会に対する紐帯の方が強かったと言われています。
モーゲンソーは、ドイツ統一を成し遂げたビスマルクの例を挙げています。彼は1862年にロシア公使を離任しますが、時のロシア皇帝から自分に仕えないかとの勧誘を受けました。今であれば、スキャンダルになりそうな誘いですが、当時は不自然とは見なされませんでした。モーゲンソーは、こうした貴族インターナショナルを背景として“国際道義”が形成されたと説明します。その大きな要因は、このコミュニティーに属する貴族たちが「名誉」と「名声」を守ることに強い責任を感じていたことです。
フランスの国王ルイ15世は、ある時、臣下からイングランド銀行の紙幣を偽造する提案を受けたそうです。これに対し、王は「あらゆる憤りと恐怖を受けることを覚悟しなければ、そんなことはできない」と提案を拒否しました。モーゲンソーは、もしルイ15世が不道徳な行為に手を染めれば、自身の良心が苛まれるだけでなく、貴族コミュニティーの中での彼の威信の喪失になったと解説します。ルイ15世が保有していた道義感覚は、貴族インターナショナルで共有されており、それが各国間の競争の先鋭化を防ぎ、各国の権力の欲望を比較的狭い限界内に閉じ込める役割を果たしたとモーゲンソーは、説明します。
19世紀にフランスの首相を務めたギゾーは、概ね貴族出身者からなる外交官の世界について、次のような分析をしており、これも超国家的な価値観の存在を示しています。「職業外交官たちはヨーロッパ共同体の中に自分たちの社会を形成している。この小さな外交の世界では、諸国家の違った利益に動かされながらも、互いの相違を超えて偉大なヨーロッパの共同体の全体的利益が明確に認識されており、同じ感覚と視野を共有してきた人々が同じ政策を実現しようとしている」
モーゲンソーの言う貴族インターナショナルは、19世紀を通じての政府官吏の民主的選出により、貴族政治が退場したため、第一次世界大戦終了までには、消滅します。また、フランス革命の中から生まれたナショナリズムの昂揚が各国を席巻し、それぞれの政治家や外交官は、自国の意思や利益を体現することが求められ、この過程で、かつて存在していた他国の政治家や外交官との強い絆は断たれることになります。こうして力の抑制機能を果たしていた超国家的・普遍的な道義準則も消滅し、「正であっても邪であっても我が祖国」という国民国家の論理が台頭します。
19世紀後半にケンブリッジ大学のある教授は「戦争をなくするためには、当事者がそれぞれの国家よりもさらに大きな全体、すなわち敵をも含む全体に所属していると感じなければならない」と書いています。難しいことですが、私は、地球規模の課題解決に協力し合うことで、各国が地球という大きな全体に所属しているとの感覚を醸成することが第一歩だと考えます。
鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)