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前事不忘 後事之師
冷戦の始まり 抑制を欠いたリアル・ポリティークは失敗する
ヤルタ会談の様子。前列左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン
1946年3月3日、チャーチルは米国で「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンが引かれた」と演説しソ連の拡張主義に警鐘を鳴らしました。このソ連の中東欧への拡張主義に対抗して、米英が中心となり、反ソ同盟が結成され、「冷戦時代」が始まります。
なぜ英米は中東欧へのソ連の拡張を許すことになったのでしょうか。最大の理由は、独ソ戦の結果です。ヒトラーが短期間で勝利を得られるとの思惑で始めたソ連との戦争がスターリングラードの戦いの前後を境にして流れが逆転、ソ連軍の反転攻勢の結果、赤軍地上軍がバルカン、東欧さらには中欧へと進軍したからです。しかもソ連の指導者スターリンは青年期にジョージアの神学校で教育を受けましたが、道義とは無縁の人物、その行動原理は力と利益計算に基づくリアル・ポリティークの政治家でした。かつてのロシア皇帝と同様にソ連の影響力を中央ヨーロッパに拡大するために赤軍地上軍が進軍した地域に息のかかった政権を作ることを目論みます。
キッシンジャーは打算的で狡智に長けたスターリンに英米の指導者がどう対峙したかによって、冷戦が始まったと説明します。
英国の首相チャーチルは自国の歴史を著述できるほどの歴史に造詣の深い人物でした。平和の創設には主要国間の勢力均衡が必要なことを知っていましたので、ドイツの敗北が決定的になる以前からソ連の拡張を抑止することを考えていました。連合軍が枢軸側のイタリアに侵攻する作戦に加えて、バルカン方面からウィーン、さらにはベルリンへとソ連軍より先に進軍することを提案します。
一方、アメリカのルーズベルト大統領はスターリンと会って、彼には「クリスチャン・ジェントルマン特有の何かがある」と感じ、彼と友人になれば上手くいくと考えました。戦後の平和の構築についても戦勝国である米英ソに中国を加えた四カ国が世界の警察官の役割を果たすことで維持されるとし、チャーチルが主張する勢力均衡は世界を勢力圏に分割しようとする古い考え方であると拒絶します。チャーチルによるバルカン方面からベルリンへの進軍提案も受け入れられず、逆に連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワー将軍はスターリンに手紙を送り、「自分たちはベルリンには進軍しない、米ソはドレスデンで合流しよう」と提案。スターリンは、この政治的な贈り物にほくそ笑み、直ちに配下の将軍にベルリン進軍を行うように命令しました。任期の途中で病死したルーズベルトの後任のトルーマン大統領はソ連に対する警戒心を有していたと言われていますが、戦後の世界秩序は道義と法の尊重に基づくべきとの前任のルーズベルト同様の理想主義的な考えを有していました。
キッシンジャーは幾度か米英がスターリンの拡張政策にブレーキをかけるチャンスはあったと分析していますが、チャーチルが主張する勢力均衡を米国が受け入れなかったことからソ連赤軍が進軍した地域全体がソ連の影響下に入る結果となりました。計算高いスターリンに対する米国の対応はナイーブだったと思いますが、面白いことにキッシンジャーは、スターリンは“アメリカの心理を計算違いした”と述べた上で次のように書いています。「ソ連邦の独裁者はやり過ぎた。彼は、アメリカはいったん善意に対する信頼が破壊されたら今度は一転して善意と同じくらい度を超した不信感を持つことを理解していなかった。その結果が大西洋同盟であり、西側の軍事力強化であった」
スターリンの計算違いの結果、ソ連を対象とする封じ込め政策が行われ、「冷戦」が始まり、ソ連は半世紀の後に崩壊します。
キッシンジャーは著作で「利益計算と力の重要性を第一に考えるリアル・ポリティークの政治家が力の限界を悟り自らを“抑制”した時に最も成功する」というようなことをほのめかしています。稀代のリアル・ポリティークの政治家スターリンに欠けていたのは、この力の抑制であり、それが極限点を超えたやり過ぎになったと私は考えますが、現代でも、米国の善意を裏切り、“抑制を欠いたリアル・ポリティーク”を追求した結果、米国の不信感をかってしまった国があるように思います。
鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)