ブルーインパルス 極限のアクロ演じて半世紀

4機編隊でダイヤモンド隊形を組みスモークを引いて基地上空に飛来するT4ブルーインパルス(8月22日、松島基地で)
創設50周年 松島基地で記念行事 空幕長 「国民に感動を」
空自唯一の展示飛行専門部隊の4空団第11飛行隊、通称ブルーインパルス・チームが今年創設50周年を迎え、記念式典が8月21日、松島基地で行われた。
式典は快晴の下、ブルーインパルス所属の殉職隊員の慰霊祭から始まり、基地慰霊碑地区で外薗空幕長、片岡教育集団司令官、杉山基地司令官、遺族、東松島市長、OB代表らと基地隊員約280人が整列する中、11飛行隊の渡部琢也2佐が操縦する1番機を先頭に、T4ブルー6機編隊が高度約150メートルをデルタ隊形で飛来。基地手前で2番機が急上昇、同機が抜け殉職者を表現する空間を保ったまま編隊が航過して弔意を示した。この後、殉職隊員6柱の氏名と事故概要が読み上げられ、全員で黙とう、献花した。
空幕長らの記念植樹後、格納庫前で部隊表彰が行われ、空幕長が渡部隊長に2級賞状と副賞を授与。この後、空幕長は「ブルーインパルスの公式展示飛行はまもなく通算1000回に達する。今日まで着実に任務を遂行できたのは先輩諸兄の後輩育成と部隊の練磨のたまもの。任務に殉じた隊員の尊い犠牲も決して忘れてはならない。先輩たちの気概と英知を学び、創意と挑戦の志を胸に任務に励み、洗練された展示飛行で大空への夢と感動をひとりでも多くの国民に伝えてほしい」と訓示した。
教育集団司令官の訓示、記念撮影に続いて格納庫内でブルーインパルスの任務遂行に貢献した団体などに空幕長から感謝状が贈られ、歴代ブルーOBら約350人が参加して祝賀会が開かれた。
翌22日は基地航空祭が開催され、猛暑の中、全国から約6万5000人が来場。航空中央音楽隊の演奏に続いてブルーインパルスが夏空のもと、ダイナミックな展示飛行を披露した。

50周年記念の祝賀会で地元関係者らに「今後も支援を」と述べる外薗空幕長(壇上)(8月21日、松島基地で)

空幕長をはじめ参列者が見守る中、変形の編隊で慰霊飛行するブルーインパルス(8月21日、松島基地・慰霊碑地区で)
3機種<F86 T2 T4>乗り継ぎ課目磨く
“五輪”を描き人気に 栄光の陰に悲劇も 3機種通じ7隊員殉職
空自アクロ飛行チーム・ブルーインパルス(青い衝撃)の歩んだ50年は、F86F、T2、T4と使用機の交代を節目に、国家的なイベントには欠かせない展示飛行として数々の実績を積み上げてきた。パイロットたちのあくなき探究心と厳しい訓練、細心の機体整備などが相まって大空を彩るその極限の演技は、観る者を感動させ、精強空自を強く印象づける。空中戦技の研究からスタートし、今では防衛省・自衛隊の広報活動に不可欠の存在となっているブルーインパルスの半世紀をまとめた。
当初は飛行教官兼務
ブルーインパルスは昭和35年4月16日、開庁間もない浜松北(現・浜松)基地で生まれた。
2年前の33年10月、日本初のジェット戦闘機航空団である1空団1飛行隊(隊長・竹田五郎2佐、のち空幕長、統幕議長)所属の長澤賢3佐が稲田淳美3佐、松尾宣夫1尉とF86戦闘機3機で360度旋回や低空ループなどを来賓や市民ら約2万人の前で披露、好評を得た。
チームはいったん解散するが、33年12月に米空軍アクロバットチーム「サンダーバーズ」が横田基地で展示飛行を公開。空自内に正式な曲技飛行チーム創設の動きが起き、再結成されたチームの展示飛行を源田実空幕長が視察。数日後、1航空団2飛行隊に曲技飛行を研究する「空中機動研究班」が置かれ“86ブルー”時代が始まる。
正式部隊名が「特別飛行研究班」「戦技研究班」、所属が第1飛行隊に変わる中、研究班の隊員は飛行教官としての学生教育と戦技研究という“二足の草鞋”をはいた状態で展示飛行の技術を伊良湖岬上空の空域で磨き、39年に東京オリンピック開会式で国立競技場上空に五輪の輪をカラースモークで描いて注目を集めた。45年には大阪万博開会式で吹田市千里の会場上空に6機で「EXPO70」の文字を描くなど国際的イベントでも活躍。昭和40年11月24日、浜松北基地離陸直後の訓練中、ソロ(編隊演技以外に単独演技も行う)の城丸忠義2尉が墜落、殉職する事故を乗り越え、F86退役に伴う解散までの約21年間で545回目の公式展示飛行を行った。
昭和40年から44年まで86ブルーのメンバーだった村田博生元1佐(74)は、「発足当時、国民は日の丸のジェット機を間近で見たことがなく、それを低高度で見るというインパクトは、今とは比べられないものだったと思う。4番機からソロになったが、極東初の東京国際宇宙ショー(41年11月・入間)で飛行した際、外国人から『難しい任務をよくやった』と言われたのが一番うれしかった」と話す。
昭和57年1月12日、4空団21飛行隊(松島)にT2高等練習機を装備した戦技研究班が新編された。“T2ブルー”は初の国産超音速機の採用、機体塗装デザインの一般公募、専用フライトスーツなどの話題とともにスタートを切った。ソロ機を2機とする6機編成で演技も多彩になった。
同年11月14日に浜松基地航空祭で「下向き空中開花」の演技中に4番機が本田技研名古屋配車センターに墜落し、高嶋潔1尉が殉職。平成3年7月4日には金華山沖で4機編隊の訓練中、2、4番機が墜落し、式地豊1尉、浜口誠司1尉が殉職。4機で展示飛行を行う時期もあったが、平成6年8月に三沢基地航空祭で米空軍アクロチーム「サンダーバーズ」と6機編成で競演し、7年12月の浜松基地航空祭まで14年間で175回の展示飛行を行った。
昭和61(1986)年から平成6(1994)年までT2ブルーに在籍し、4番機と編隊長を務めた東福久則1佐(56)=幹校=は当時を「“挫折と再生”の時代だったのでは」と語る。
「T2は速くて乗りやすいが減速が大きく性能的に厳しい飛行機だった。他隊の戦技教官は3年で部隊に戻るが、ブルーの任期は5、6年と長くなることもあり、優秀で選ばれたのに部隊に戻れなくなると辞める隊員もいた。2度の事故後、飛行再開に向け地元への説明や要員確保など体制立て直しが済んだ時点でT2時代が終わったという印象。苦労はしたが、それが今の11飛行隊の在り方などにつながったという意味で、無駄ではなかったと思う」。
初の展示専門部隊に
平成7年12月22日、4空団でT4中等練習機装備の11飛行隊が新編された。11飛は歴代ブルーと異なり学生教育の兼務がない空自初の展示飛行専門部隊。8年4月の防大入校式の初展示を皮切りに、9年4月には初の海外遠征に臨み、米・ネバダ州ネリス空軍基地で「米空軍創設50周年記念エアショー」で約50万人が見守る中、米サンダーバーズをはじめ参加各国のアクロチームと妙技を競った。
平成12年7月4日、金華山沖空域で飛行訓練を終え帰投中の5、6番機が松島基地東方の海上に墜落、阿部幹雄3佐(37)、一嶋三樹3佐(35)、梅川智弘1尉(35)が殉職した。安全態勢の強化や飛行区域見直しなどを経て翌年2月に飛行が再開され、以後、日韓共催FIFAワールドカップの日本チーム初戦などのイベントに花を添えた。創設50周年を迎えた今年12月19日には、新田原基地航空祭で3代ブルーを通算した公式展示飛行1000回を迎える見込みだ。
11飛行隊長の渡部琢也2佐(43)=T4ブルー編隊長=は「ブルーに着任して驚いたのは展示飛行後の反響の大きさと、まだまだ我々をご存知ない方が多いということ。我々の演技を通じて空自にはさまざまな職種があり皆頑張っていることを知ってもらえるきっかけになるよう、安全を確保しながら『創造への挑戦』を合言葉に、演技の程度を高めていきたい」と話している。

展示飛行開始を前にエンジンの状態などを確認するT4ブルーの整備員(手前)とパイロット(8月22日、松島基地で)

炎天下、基地祭で手に手にカメラを構えブルーインパルスの航跡を追う来場者(8月22日、松島基地で)

外薗空幕長と記念写真に収まるブルーインパルスのパイロットたち(8月21日、松島基地で)
“ブルー”の由来はコールサインから
「ブルーインパルス(青い衝撃)」の愛称は部隊草創期に使われたコールサインに由来する。昭和33年10月に浜松北基地開庁記念日行事で1飛行隊編隊長が展示飛行時にコールサイン「チェッカー・ブルー」を使用。その後、数回の航過飛行でも同じサインが使われ、34年8月には「インパルス・ブルー」になり、35年3月の第1回公式展示飛行の際、「ブルーインパルス」が使われた。同年4月12日の空中機動研究班発足に伴い、部内でチームの愛称が募集され「天竜」が選ばれ一時期実際に使われたが、使いやすさ、親しみやすさなどの理由から「ブルーインパルス」の愛称が定着していった。
操縦士は“ドルフィンライダーズ”
現在のブルーインパルスは使用機T4の形状がイルカに似ていることから、パイロットは「ドルフィンライダーズ」、操縦以外のすべてを担当する整備員や支援要員は「ドルフィンキーパーズ」と呼ばれる。「歴史あるブルーに、このタイミングで在籍させていただき光栄」と話すドルフィンキーパーズの准曹士先任・高橋和仁曹長(48)は戦技研究仕様のT4について、「通常のT4とはラダー(方向舵)の切れ角が多く、スモークを出す機構を備えるため燃料タンクの容量が少ないのが特徴。飛行場のない地域に展開する際は増槽タンクを持ってでかける点が通常のT4との大きな違い」と話している。
●ブルーインパルス50年の足跡
1954.7.1 航空自衛隊発足
1958.10.19 浜松北(現・浜松)基地開庁記念式典で1空団の長澤賢3佐、稲田淳美3佐、松尾宣夫1尉がF86F戦闘機3機の飛行を初めて公開展示
1959.3.15 犬山市で開催された平和日本防衛博覧会開会式、同20日の防大卒業式で4人で再編成された上記チームが展示飛行
1960.3.4 浜松北で7人の新フライバイチームによる初の公開展示飛行
4.16 1空団第2飛行隊に空中機動研究班発足
5.21 ジョンソン(現・入間)基地・米3軍記念行事の展示飛行で発煙装置を初使用
8.1 空中機動研究班を特別飛行研究班に改称
1961.7.21 伊良湖岬北側空域で曲技訓練中に編隊長・加藤松夫3佐が墜落し、殉職
10.22 浜松北基地開庁記念の展示飛行でカラースモーク初使用
1962.4.1 小牧で行われたF104J戦闘機国産初号機の引き渡し式で展示飛行
1964.10.10 東京五輪開会式で国立競技場上空に五輪マークを描く
1965.7.25 松島基地航空祭で第100回展示飛行
11.20 2飛行隊廃止で戦技研究班に改称、1飛行隊所属に
11.24 浜松北基地で訓練中、ソロ・城丸忠義2尉が墜落し、殉職
1968.9.2 札幌・北海道開拓100年祭で天覧展示飛行
1969.9.7 札幌・丘珠空港祭で第200回展示飛行
1970.3.14 大阪万博開会式で吹田市千里上空に「EXPO’70」の文字を描く
1974.3.13 浜松北基地で第300回展示飛行。2級賞状
1975.3.31 4空団に臨時T2訓練隊新編
1976.9.26 1空団20周年記念式典で初の6機編隊展示飛行
1979 F86Fブルーの後継機、T2に決まる
1980.4.23 浜松北基地で第500回展示飛行
1981.2.8 入間基地で86ブルーの最終公式展示飛行(545回)、松島のT2が6機編隊で曲技飛行を展示、1空団に1級賞状授与
1982.1.12 4空団21飛行隊に戦技研究班新編
7.25 松島基地航空祭でT2ブルーが初の公開展示飛行
11.14 浜松基地航空祭で演技中に4番機が市内に墜落、高嶋潔1尉が殉職、飛行訓練停止
1984.7.29 松島基地航空祭で1年8カ月ぶりに公開展示飛行再開、13課目を披露
1990.4.1 大阪・国際花と緑の博覧会開会式でシンボルマークを描く
1991.7.4 金華山沖で訓練中に2、4番機が墜落、式地豊1尉、浜口誠司1尉が殉職、訓練飛行停止
1992.8.23 松島基地航空祭で1年2カ月ぶりに4機で公開展示飛行
1994.8.7 千歳基地で6機の展示飛行が復活
8.10 三沢基地航空祭で米空軍アクロチーム「サンダーバーズ」と6機編成で競演
10.1 4空団に臨時11飛行隊新編
1995.11.12 百里基地航空祭で展示飛行、後継となるT4ブルーが「研究飛行」で競演
12.3 浜松基地航空祭でT2ブルー最後の公式展示飛行(175回)
12.8 松島基地でT2ブルー解散記念式典、最後の展示飛行
12.22 21飛行隊戦技研究班解散、11飛行隊新編
1996.4.5 防大入校式でT4ブルーが初の公式展示飛行
1997.4.25、26 初の海外遠征、ネバダ州ネリス空軍基地で開かれた「米空軍創設50周年記念エアショー」で各国アクロチームと共に展示飛行
1998.2.7 長野オリンピック開会式で展示飛行
2000.7.4 飛行訓練を終え帰投中の5、6番機が松島基地東方の海上に墜落、阿部幹雄3佐、一嶋三樹3佐、梅川智弘1尉が殉職
2001.8.26 松島基地航空祭で4機の展示飛行再開
2002.4.5 防大入校式で100回目の公式展示飛行
6.4 日韓共催ワールドカップの日本代表初戦で埼玉スタジアム上空を航過飛行
2006.2.17、18 部隊創設10周年記念行事
2007.5.27 美保基地航空祭で200回目の公式展示飛行
200910.18 三沢基地航空祭で米空軍「サンダーバーズ」と競演
2010 創設50周年