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イラク復興支援 空自派遣輸空隊 帰国 任務完遂 砂嵐や酷暑も乗り越え 実脅威下で運航821回に 治安情勢の不安定なイラクの空を飛んで5年、空自派遣輸送航空隊が昨年12月23日に無事帰国して、イラクの復興を支援する自衛隊の活動は終わった。同17日、クウェートのアリ・アルサレム空軍基地で行われた撤収式典で、米空軍第386遠征航空団司令代理のポール・フェザー大佐は「日米両国の友情に貢献した」と空自の活動を称えた。輸空隊は平成15年12月の先遣隊に続いて翌16年1月には第1期要員約200人がアリ・アルサレム空軍基地に展開。同3月3日から輸送終結命令の出された昨年12月12日まで、C130H輸送機によるイラク国内への任務運航を800回以上行ったが、この間の活動の軌跡を、関係者のインタビューを交えて振り返った。 イラク上空を飛ぶC130H輸送機のコックピット内。クウェートから南部のアリ(旧タリル)、バグダッドを経て北部のエルビルを約7時間かけて往復した
役立った危機回避訓練 大勢の見送りの中、輸空隊第1陣としてクウェートに向け出発するC130H輸送機(16年1月、小牧基地で) イラク国内への任務運航第1便から降ろされる日本からの医療器材(16年3月3日、旧タリル空港で) 空自は第1期から16期輸空隊まで延べ約3500人を派遣し、C130H輸送機でわが国からの人道復興支援物資をはじめ、関係各国・機関の人員と物資、サマワ派遣の陸自隊員、さらに18年7月の陸自撤収後は国連の要請に基づき活動範囲をバグダッドや北部のエルビルまで拡大して国連や多国籍軍の人員や物資などを空輸。これまでに任務運航821回、人員4万6500人、貨物計約673トンを空輸した。 平成4年の国際平和協力法の成立後、空自はルワンダ難民救援(平成6年)、イラク難民支援(同15年)、イラク被災民支援(同)などのほか、国際緊急援助活動としてハリケーン被害の中米ホンジュラス(同10年)、スマトラ沖地震被害のインドネシア(同17年)などにC130H輸送機を派遣、救援物資や人員の輸送を行ってきたが、今回のイラク派遣のように実脅威下で5年間にわたって海外に拠点を置いて活動を続けたのは初めてだ。 派遣部隊の最後の指揮官、16期輸空隊司令の北村靖二1佐は本紙のインタビューに答え、エルビルやバグダッドなどの国連職員や派遣各国の指揮官らの「空自の活動はイラクの復興進展に大きく寄与し、中東の平和と安定に貢献した」との感謝の言葉を紹介するとともに、「最終任務便が(アリ・アルサレム基地に)着陸した瞬間、達成感とともに、隊員を無事に日本へ連れて帰ることのできる喜び、5年間の全派遣隊員とその家族、任務に関わったすべての人々の献身的な努力に思いを致し、目頭が熱くなった。今日からは日本国内はもとより世界平和のため、またいつかわれわれの力が必要とされる時に向けて新たなスタートを切りたい」と話した。 当初、イラク情勢は安全とはいえず、先遣隊の派遣を目前にした15年11月、イラクの復興支援に尽力していた外交官の奥克彦氏が同国北部で凶弾に倒れ殉職。1期の活動が始まってすぐの16年5月にはバグダッド近郊で取材中のカメラマン橋田信介さんらが武装勢力に襲撃され死亡している。 イラク特措法は自衛隊の活動を「非戦闘地域」に限ったが、やはりイラク上空も地上と同様、実脅威の可能性にさらされていたと言っても過言ではない。 1輸空では派遣直前の15年秋から硫黄島などで赤外線追尾式のミサイルを回避する訓練を重ねた。模擬地対空ミサイルが発射されると、C130Hはセンサーが感知して機体の周囲に「フレア」と呼ばれる高温の熱源を放出してミサイルを欺まん、機体を大きく左右に傾けて回避機動する。さらにロケット弾など地上からの攻撃が予想される飛行場には「タクティカル・アプローチ」と呼ばれる着陸方法で、狙いを定めにくいよう急旋回しながら滑走路を目がけて急降下着陸を敢行する。 他国軍の航空機が多数飛行するイラク上空で、空自C130H輸送機を狙ったものだったかどうかは不明だが、ミサイル感知センサーが作動し、あるいは手動で予防的にフレアを放出したこともあったという。こうした危機回避訓練が実脅威の中で役に立ち、5年間にわたる無事故空輸を支え続けたことは確かだ。 戦術空輸の貴重な経験 16年1月から4月まで第1期輸空隊司令を務めた新田明之元1空佐(56)(前2輸空隊司令)は、任務の成功と全隊員の無事帰国を「感無量」としながら、「1期はやる気に満ちた隊員が集まり、施設やルールなどさまざまな基礎をゼロから懸命に確立し、そのノウハウを確実に次期隊員に引き継いだ。その積み重ねの成果だ」と振り返る。 輸空隊は臨時の混成部隊である上、完全な基地機能を持たずに輸送機部門だけが砂漠のど真ん中に孤立展開することになる。そうした部隊を率いるに当たり、新田氏は「団結、創造、保全」をモットーに掲げた。また、輸空隊の部隊紙「アッサラーム・アレイコム」を立ち上げて隊員同士の団結を図り、日本の留守家族には各基地の厚生課などを通じてこの部隊紙を配り、隊員が無事に働いている姿を伝え、安心してもらうことに心を砕いた。 「空自は50年間、幸い実戦を経験せず訓練を積んできたが、今回、実脅威の存在する中東の地で戦術空輸という実任務を経験できたことは非常に大きな成果。今まで一生懸命やってきたことが間違いでなかったことを確認できた一方、反省させられる部分があったことも事実で、自信と反省という大きな財産を得た」と新田氏。 第1期の初代広報班長として部隊紙づくりに腐心した大村和俊3佐(現3術校7科長)の最大の思い出は、「初任務飛行の無事成功をリアルタイムに広報できたこと」だ。「一発勝負のビデオとカメラ撮影、十分な器材もない中での編集作業と内外メディアへの提供、ぎりぎりで間に合った新田司令の衛星中継によるテレビ出演、全てが薄氷を踏む思いだった」という。 当初は飛行隊など運用サイドの準備や錬成で困難も多く、生活面では娯楽もなく、現地の食事が合わなかったり、トイレがすぐに詰まったりと悩みが多い中、「施設、補給、厚生、会計などの隊員が寸暇を惜しんで業務にいそしんでいた姿が忘れられない。この任務に携わった全ての人に、アッサラーム・アレイコム(あなたの上に平和がありますように)と申し上げたい」と大村3佐。 総飛行距離は地球18周 気温50度超、常に砂嵐にさらされるクウェートでC130H輸送機の機体を分解、整備する整備員ら 帰投したC130Hを洗浄する隊員。機体の小さな凹凸部分にまで砂塵が入り込むため、毎回丁寧な洗浄が欠かせない 任務終結命令を受け、帰国の途に就く最後のC130H輸送機(昨年12月17日、クウェートのアリ・アルサレム空軍基地で) 18年7月の陸自撤収後は、イラク南部のアリ(旧タリル)空港だけでなく、国連の要請に基づいてバグダッド空港を経由して北部のエルビル空港までルートが拡大された。この時期に9期輸空隊司令を務めた西野厚1佐(現支援集団運用1課長)は、「隊員と日本の家族を思いつつ、活動の主体が空自部隊のみとなることへの気負いと、新たな任務への漠然とした不安が交錯した複雑な心境」で、「任務拡大に対応できる部隊の態勢整備と、隊員の意識改革」が最大の関心事だったという。 そんな中、18年11月から11期輸空隊では副操縦士として女性パイロットの樋口美登里3佐(現1輸空)がイラク上空を飛んだ。「イラク国内の任務は危険と隣り合わせ。運航任務を終えてクウェートに戻ったところで実はイラク国内の目的飛行場に攻撃が起こっていたことを聞かされ、肝を冷やしたことも」と樋口3佐。 陸上自衛官の夫と長男(当時2歳)を日本に残しての4カ月間の派遣だったが、「上司や同僚、家族の支えがあって任務にまい進できた。現地では今までにない緊張感の中、訓練と任務を重ね、クルーの間に強固な信頼関係が培われた。日本の航空機が攻撃されることなく完全試合を達成できたことはうれしい。任務に従事できたことは私の誇り」と語る。 砂嵐と、夏は気温50度を超える厳しい環境下での夜間飛行訓練や、徹夜の機体整備作業も任務を支えた。 10期整備員の古寺弘幸3曹は「想像以上の気温と、整備中に機体の近くをキツネが通り過ぎていく光景に驚きつつも、国内ではなかなか経験できない作業に立ち会え、先輩から整備に関する貴重な話を聞くことができた」という。 また、「他国軍から称賛の言葉を数多く受け、その活動に従事する一員になれたことに誇りを感じる。視野を広げることができ、今後も機会があれば国際貢献活動に参加したい」(清田謙三1尉=現1輸空整補群)、「日本での常識を見直す良い機会となった。我慢、諦め、開き直りもまた必要だった」(加藤穂2曹=現2術校2教部)など、隊員たちはそれぞれ貴重な体験をして帰国している。 織田支援集団司令官は「イラクの復興を支えた空自機によるメソポタミア上空の総飛行距離は地球18周分。国益を一手に担い、一件の事故もなく任務を完遂した隊員たちを指揮官として誇らしく思う。一方で、派遣中に親族を亡くされた隊員は50人。中東の地にあって涙をこらえ、悲しみを乗り越えて黙々と任務にいそしんだ隊員に頭が下がった。撤収業務隊の最後の一人が無事に帰国して本当に任務が終了するまで、油断することなく、おごることなく引き続き撤収業務にまい進したい」と話している。