歴史刻んで半世紀
通算2515号、2万ページ余
行事や訓練、災派など 時代の変化まざまざ
 
 

 『朝雲』は昭和二十七年六月一日付の第一号いらい本2515号(2002年6月6日付)まで五十年間、隊員と喜怒哀楽をともにしながら、およそ二万ページ余に達する紙面に防衛庁・自衛隊の歴史を刻んできた。時を経て変色したページを繰りながら、中央観閲式や共同訓練、災害派遣などの記事を通して“時代”の変化をたどってみた。

銀座通りも行進
昭和20年代の中央観閲式

 最初の中央観閲式は昭和二十七年十月十五日、自衛隊の前身・保安隊の創立記念式典として神宮外苑国立競技場で行われた。
 同日付の本紙によると、観閲官の吉田茂首相兼保安庁長官は保安隊創設の目的と任務について、「保安隊はわが国の平和と秩序を維持し、人命及び財産を保護することを使命に創設された大きな実力を有する部隊。国民の世論で決定された政治目的に奉仕する忠実な公共奉仕の機関であり、まさしく、国民の、国民のための、国民による保安隊として、国民から信頼され、敬愛される組織とならねばならない」と訓示した。
 また、隊員に対しては、「わが国が国際社会における名誉ある一員として健全に発展することをこい願う愛国心を持った青壮年により、保安隊が育成、発展せしめられんことを期待する」とした。
 参加した約四千人の隊員は観閲行進後、銀座通りなど都内を市中行進。途中からの雨にもかかわらず、沿道の市民は次第に増え、拍手や歓声、紙テープも投げて歓迎した。
 翌二十八年は保安隊創設一周年記念式典が十月十五日、練馬駐屯地で行われ、このあと、車両部隊と徒歩部隊が別のコースで都内を市中行進している。二十九年は自衛隊発足記念式典が七月一日、越中島の各幕庁舎で行われ、市中行進はなかった。
 三十年から三十九年までは明治神宮絵画館前、四十年から四十七年までは国立競技場が式典会場になり、四十五年までは式後に恒例の市中行進が行われたが、三十四年だけは伊勢湾台風の災害派遣ですべて中止されている。
 この間の最大規模の式典は四十年で、隊員約五千七百人、車両約三百七十両が参加した。
 四十八年以降は都心の交通事情などもあって会場が朝霞訓練場に移された。見学者は入場券が必要になり、式後の市中行進も行われなくなったため、一般都民の目からは“閉ざされた”式典となった。
 平成八年からは三自衛隊の持ち回り開催となり、航空観閲式(百里)、観艦式(相模湾)、観閲式(朝霞)の順に行われているが、昨年はテロ対策の警備強化で中止されている。

昭和27年6月1日付『朝雲』創刊号
 第1 面に増原惠吉・警察予備隊本部長官と林敬三・総隊総監の発刊に寄せた祝辞が掲載されている。この中で増原長官は、娯楽が何ひとつない中で部隊建設に追われた創隊当初の「不如意な環境」について「まことに申訳ないこと」と、隊員の労苦を詫びた上で、厚生面の整備に言及、その一環として『朝雲』が発刊されたことの意義を強調するとともに、「7 月中旬には予備隊は1 1 万人を擁する大家族になる。『朝雲』
はこの大家族の心のかよい路として隊員に愛され、親しまれ、手放し難いものに成長することを念願」すると述べている。また、『朝雲』の名付け親の林総隊総監も「隊員同士の温かい心と心とのつながりを持つための新聞が生まれた」「隊員諸君のかねての要望が達せられ心から嬉しい」と、祝辞を寄せている。

 最初の中央観閲式となった保安隊創立式典。壇上は吉田首相(中央)、増原保安庁次長(左)、林第1幕僚長(右)(昭和27年10月15日、神宮外苑国立競技場で)
「伊勢湾」で73万人
災害救援の中核に

 自衛隊の災害派遣は昭和二十六年十月、警察予備隊の小月部隊が台風被害を受けた山口県広瀬町に出動したのが最初。当時、『朝雲』はまだ創刊前で、本紙の災派報道は翌二十七年七月三日から三日間、警察予備隊金沢部隊が金沢市内で行った豪雨被害の救援活動が初めて(同年7月15日付)。
 紙面には「水害救援に出行、道路啓開に活躍」「予備隊観改まる」などの見出しが躍っている。当時は災害派遣を「出行」と称していたことや、市民の警察予備隊観もうかがえる。
 昭和四十年ごろまでは毎年、台風、豪雨、豪雪などの自然災害が発生し、大きな被害をもたらした。組織力、機動力、機械力とも優れていた自衛隊は救援組織の中心となって活動した。被害が大きく範囲も広かった伊勢湾台風(三十四年九月)の災派は、派遣日数約二カ月半、隊員延べ約七十三万人、車両同約九万五千両と、昭和時代最大の派遣規模だった。本紙も記者を派遣、人命救助、遺体収容から道路・水路啓開、物資輸送、医療・給食支援など、隊員が汗まみれ、泥まみれで活躍する姿をペンとカメラで報道した。(9月24日付〜11月4日付)
 四十年から昭和の終わりにかけては航空機事故が多発、中でも日航ジャンボ機の御巣鷹尾根の墜落事故(六十年八月)は最も大規模な災派となった。けわしい山容と原生林の中で川上慶子さんら生存者四人の救出と五百人を超える遺体の搬送にヘリコプターがピストン輸送で活躍、派遣延べ機数は航空事故災派ではずば抜けて多い千二百機に達した。
 平成に入っての最大災派は阪神・淡路大震災(七年一月十七日)で、派遣期間百一日間、延べ約二百二十五万四千七百人、車両同約三十四万六千八百両、航空機同一万三千三百五十五機と、派遣日数を除き、いずれも史上最大となった。
 また、雲仙普賢岳噴火の災派は史上最長の千六百五十八日を記録した。
 特殊な災派では、地下鉄サリン事件(七年三月二十日)、東海村ウラン加工施設事故(十一年九月三十日)がある。九年にはロシア貨物船、韓国、パナマのタンカーの油流出事故が起き、隊員延べ約十五万九千人、車両同約一万二千二百両、航空機同約七百機、艦艇同約千百隻が派遣された。

 昭和34年9月に中部地方を襲った伊勢湾台風で、自衛隊は約2カ月半、述べ約73万人を派遣、期間、規模とも昭和時代最大の災害派遣となった。

厳しかった「湾岸」
自衛隊の国際貢献

 自衛隊初の国際貢献となったペルシャ湾機雷掃海で、嫌い処分具に爆雷を積む掃海艇乗員(平成3年6月19日)

 自衛隊の国際貢献は平成三年、海自掃海部隊のペルシャ湾航路啓開作業「湾岸の夜明け」作戦で幕開け。落合タオサ・一掃群司令以下五百五十一人の隊員と掃海母艦、補給艦各一隻、掃海艇四隻が六月五日から八月十九日まで、同湾内の機雷危険海域で計三十四個の機雷を発見、処分した。
 常に触雷の危険にさらされ、風浪、砂じん、油煙、あるいは強い潮流や障害物に悩まされる悪条件下の厳しい任務だった(本紙同年6月20日、22日付など)。
 このあと、国連平和維持活動(PKO)としてカンボジア(四年九月−五年九月)を皮切りに、モザンビーク(五年五月−七年一月)、ゴラン高原(八年二月から継続中)へと自衛隊のPKO活動が本格化、東チモール派遣部隊の施設作業も今年四月から始まっている。
 また、人道支援でルワンダ難民救援(六年九月−十二月)、国際緊急援助活動でホンジュラスの医療・防疫(十年十一月−十二月)、地震災害のトルコ(十一年九月)とインド(十三年二月)への援助物資輸送も行われた。
 七年十一月に決定した防衛計画の大綱では、防衛力の役割として、わが国の防衛、大規模災害への対応とともに、「より安定した安全保障環境の構築への貢献」として国際協力も明記された。
 このほか、昨年十一月からはテロ対策特別措置法に基づく海自艦艇と空自輸送機の米軍などへの後方支援活動も継続中だ。
 カンボジアPKO派遣から十年たった今年一月、本紙では西元徹也防衛庁顧問(元統幕議長・元陸幕長)の司会で、PKO、難民救援、国際緊急援助隊などで指揮官を務めた四人の現職幹部自衛官が問題点や教訓を語り合っているが、こうした国際貢献の積み重ねが部隊の大きな自信につながっている半面、万一の際の武器使用や指揮権の問題など、国内の法整備の遅れが派遣隊員の大きな負担となっている現実も明確に示された。
掃海訓練で幕開け
共同訓練海自から

 初の日米統合共同訓練でハワイから到着した米陸軍軽歩兵師団の兵士

 海自と米海軍が最も早く、昭和三十年から共同訓練を開始した。海自一一、一二両掃隊の掃海艇「やくしま」など四隻と米海軍のLST(戦車揚陸艦)一隻、掃海艇三隻によるもので、四月二十五日から四日間、佐世保黒島沖で掃海訓練を実施。
 「やくしま」は同十六日に米海軍から供与されたばかりの掃海艇七隻のうちの一隻で、訓練は同艇の就役訓練を兼ねていた(本紙同年5月1日付)
 当時の日本近海は、浮流漂着する機雷がおびただしく、人や船舶に大きな被害を与えていた。このため、海自の前身・海上警備隊が二十八年の一年間に百五十六個の機雷を発見、処分するなど掃海作業で活躍しており(本紙29年3月11日付)、日米共同訓練も掃海訓練から始まった。三十年は瀬戸内海などでさらに二回の掃海訓練を行い、三十二年九月からは対潜特別訓練も始まっている。
 空自と米空軍との共同訓練は五十三年からで、空自戦闘機延べ約三十機と米軍の戦闘機六機、輸送機十機が参加、十一月二十七日から六日間、三沢基地周辺の訓練空域で戦闘機戦闘訓練が行われた。米軍機は比クラークフィルド基地に所属、往復、空中給油を受けながらの実戦的機動展開で空自関係者を感心させた(本紙同年12月7日付)。
 陸自はさらに遅く五十六年、米海兵隊との訓練が最初。陸自約百人、海兵隊約六十人が参加、十一月一日から三日間、東富士演習場で防御陣地での攻防を想定した小規模な通信訓練を行った。
 翌年は通信訓練のほか、米陸軍、海兵隊も加わった実動、指揮所(YS=ヤマサクラ)両演習へと一挙に本格的な共同訓練態勢に移行した。
 統合レベルの共同演習は三自衛隊の共同訓練が軌道に乗った六十一年からで、この年は二月に指揮所、十月に実動演習を実施。実動演習は日米合わせて人員約一万三千人、航空機約百機、艦艇約二十隻と、初回にしては大規模なもので、陸上作戦は北海道大演習場、海・空作戦は本州太平洋側海空域に分けて十月二十七日から五日間行われた。
 六十二年度からは実動、指揮所演習が隔年で行われている。